2017年9月6日水曜日

(K0128) 「余生」の三つの意味 <個人の発達>


「余生」には三つの意味があると考える。「余裕ある生」「余った生」「余分な生」。

人生は、「現役」から「余裕ある生」を経由して「余った生」に移行し「死」に至る。「余分の生」はあってはならない、というのが私の人生観である。


「現役」と「余裕ある生」との間にあるのが「定年退職(代表例)」であり、「余裕ある生」と「余った生」の間にあるのが「健康寿命」である。「現役」では「責任を負って、家族と社会(会社)を中心的に担い」、「余裕のある生」では「余裕をもって、世話しながら自分を生き」、「余った生」では「快適に世話されながら自分を生きる」。

「余分な生」は、「生きていても意味のない生」であり、ここに陥らないことが肝要である。そのためには、「定年退職(代表例)」や「健康寿命」の外部変化に適応することが大切である。変化にもかかわらずこれまでの生き方に固執すると、「余分な生」に陥る恐れがある。


===== 引用はじめ

自分の人生に「余生」なし
 

 … 人間ってみんな、幾つになっても自分の人生はしっかり生きたいと思っているでしょう。余生というものは他人の言うことで、本人は自分の人生に「余分」や「余り」はありません。

 しかし、「しっかり生きる」とはどういうことなのか。「仕事人間」であった私たちの世代は、仕事をしっかりすることがしっかり生きることでした。…

 「仕事」がなくなったあとは、どうしたらいいのか。単に、元気に生きることだけではありません。社会に関わって、少しは世のため人のためになる人生を送りたい――。それがしっかり生きることの中身ではないでしょうか

===== 引用おわり
高見高生の認知症だより(12)、産経新聞(2017/08/30


単純な「余生が有るのが良いのか、無いのが良いのか議論」は意味がない。「余生」にどのような意味を込めるかが大切である。「余生」にこだわると、「余った生」(健康寿命後の生)が「余分な生」(生きていても意味のない生)になってしまいかねない。

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